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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第八節 虎徹、助廣、眞改時代(中新刀前期)

日本刀の形態研究(十二)

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第八節 虎徹、助廣、眞改時代(中新刀前期)

 この時代は年号を以て示せば、萬治、寛文、延宝を中心とします。正保、慶安の頃は種々の点に於いてなお前代の継続と見るべきものが多い故、ここには虎徹、助廣の作品の始まる寛文年間を以て分岐点としようと思います。
 現在刀剣に於いて我々が最も数多く接するものはこの期の作品でして、刀工の数から見ても残された刀剣の数量から見ても実に隆盛時代という事ができます。しかもその隆盛は戦乱によって来るものではなく、平和の時代に於いて見られるのですから、従来の場合とは著しく傾向を異にしているのです。少なくとも古刀期にあっては鍛刀界の活況は戦乱の世と共にあり、その萎縮は平和によってなされるものである事は述べたところです。刀剣の如き武器が平和の時代に盛んに作られる事は確かに異例と見られるべき事柄です。
 しかし徳川時代の封建社会は武士を中核とするものであり農工商の上に立つ武士は平和の時と言えども刀を以て表象される限り、戦乱の世に立つべき覚悟は失われるべきではなかったのです。この事は是まで戦場に帯びた武器を腰間に手挟む慣習によって示される所です。尚又平時に於ける刀剣の鑑賞はその様な慣習とも相伴うものです。この点に於いて寛文期の繁栄はむしろ鑑賞によって起こったものと考えてよいと思います。
 次に城下町の興隆が刀剣製作の盛況と相伴っている事をも知らなくてはなりません。当時鍛刀の中心地は往時に於ける備前、備中の如き鉄産地ではなく、地方に於いては大名の城下町が、日本全国に於ける場合は江戸、大坂、京都の三大都市がその主なるものとなったのです。
 平和の到来と共に来る交通の利便、製鉄業の整備、交換の自由等からの刀匠は必ずしも古刀の如く鉄産地に近く居住するを要せず、却って都市の需要の多い所にいる方が、販売にも材料の入手にも好都合であるといった様な種々の変化は近世都市の発展と共に起こる諸現象です。
 城下町は諸大名の治下に於いて政治、経済あらゆるものの中心であったので、刀匠は大名の被護の下にここに安住して夫々業に励んだのです。かくして城下町の繁栄と共に刀工の活躍も又夥しい数に及んだ事はいうまでもありません。
 しかしこの時代の多量な刀剣を通じて如何なる傾向が見られるでしょうか。
 戦時に於ける刀剣は自分から実用の目的にのみ集中されるゆえに作品は単純固定化するのに対し平和時にあっては変化複雑を見せるのが常です。この期の刀剣こそは当に後者の典型的なものといえるでしょう。従って前期に於ける相州伝万能の風は自ら消滅して各伝の勃興著しく、又同伝法によっても各刀工の個性的作風が強く表出されているのを見るのです。
 寛永の頃より備前伝丁子が紀州石堂、佐々木一峯、石堂是一などによって復興された事は前に述べました。又三本杉が伊予大掾勝国、関の田代兼光、兼信等によって造られて来た事は、同一の傾向即ち相州伝万能に対する不満からも起こるものです。故に同じく相州伝もこの時代に至ると変化を生ぜずには置きません。津田助廣、助直、板倉照包などの濤乱刃は刃文として前人未踏のものというべきですが、なお相州伝の変化とも見られるものです。それは波濤の踊るさまを模したものですが、相州伝に於ける不規則な乱れを技巧的に調整する所からも生ずるべき基礎があると考えられます。
 同様な事は丹波守吉道(二、三代)等の簾刃、菊水刃が生れるのです。従ってこれ等の刃文は初代の吉道にはあまり見られず二代目以後下るに従って明瞭になる傾向があります。
 虎徹の互の目乱れは何れの系統に属する独特のものですが、やはり一種の図案化された技巧的のものという事が出来ます。
 この事は刃文に対する刀工の意識が明確であり且自由になし得る事を示しています。慶長期より寛永にかけて各五ヶ伝の特徴が漠然として意識されたのですが、それが寛文以後には自己の刃文という事を強く把握している点が見受けられます。
 三本杉は古刀期の兼元が最有名ですが、これなど小互の目小乱れで時としては僅かに三本杉を想像できるという程度です。これが新刀関の兼元兼信、加州の陀羅尼勝国などに於いては整然たる模様をなせる三本杉の並列刃文です。この事は一方に於いて刃文に対する認識が明確を要求するものであると共に、他方に於いては刃文を表現する技術即ち焼刃渡し手腕が洗練されてきた事を示すものです。平和の時代の刀剣は結局視覚的な鑑賞を呼ぶものでここに刃文の明瞭さと種類の豊富さとが自ずから来るのです。この期の有名な作者の特徴著しい刃文について見ると先江戸には長曾禰、法城寺一派の互の目小乱及直互の目、大坂には津田助廣、坂倉照包等の濤乱刃、河内守国助一流の拳形丁子、井上眞改の直乱れ、紀州石堂の丁子、山城には丹波守一派の簾刃、菊水刃、山城守国清の中直刃、加州勝国の三本杉、兼若の箱乱れ、逆丁子、肥前刀の直刃、互の目乱、丁子、仙台国包(山城守)大和伝直刃等一寸上げてみても斯く多様です。なお全国的に仔細に調べるならば、その著しさに驚嘆するでしょう。
 又刃文の明瞭さも前代に比べて著しく躍進しています。慶長、元和の頃は相州伝全盛の時代ですから当然ですが、寛永、慶安頃の作品と較べるとこの事は著しい特徴として現れています。勝国の事は先にいいましたが、兼若の箱乱れなども同代の四郎右衛門兼若以後が最整った刃文となっているのであり、河内守国助も初代はなお単なる丁子ですが二代国助になる拳形丁子です。菊水刃も二代丹波守吉道以後に鮮明の度を加えます。肥前刀の直刃に於いても初代忠吉は沸崩、喰違いを交えているのに代下ると共に真の直刃の出現を見ます。更に三代忠吉に至ると肥前の沸匂深い互の目乱れが次第に鮮明なる小丁子に変わっています。
 これ等全て焼刃に関する深き意識の下に起こる現象でした、やはり平和の影響の著しい事が看取せられるのです。刀剣は本来戦場の要具ですから鋭利な斬れ味と強靭な弾力性こそその関心の的でなくてはなりません。それが刃文の方が先になるとここに鍛刀上の弊害が現われざるをえないのです。しかし平和の深まると共にその様な傾向の萌しがないでもえられません。ここに殊勝なる作者、及至は所持者に於いて「試し」が行われるに至るのです。この事は戦乱に近い時代に起こらずして平和の漸く深くならんとする際に起こっているのは上記の如き理由によるものと思われます。要するに安定、虎徹などに見る全象眼試銘も実用を遠ざかりつつある時代に於ける苦衰の現れと見るべきです。
 故によき刀工に於ける苦心は如何にして華実兼備の名刀を作るかにあったろうと思われるのです。
 次にこの時代の刀剣に付いて全体的な展望を試みる時最顕著なる傾向は文化の上に於いて京坂地方と江戸とが夫々対立的な雰囲気を形作る如くに、刀剣の世界にあっても両都市の性格の反映とも看るべきものが窺われるのは極めて興味深い事柄です。
 この事は大坂の生んだ最大の巨匠たる津田助廣、井上眞改と江戸の長曾禰興里の作刀に付いて見れば直ちに了解できます。前者の華麗優美な趣と後者の剛健質実の作風はそのままに大坂の街と江戸の町との対比を見ることが出来ると思います。
 江戸は大坂が町人の街なるに対し、天下の覇府の存する町にして武士の都です。家康が天正年間にここに封ぜられるまでは、武蔵野の一寒村に過ぎなかったのですが、徳川氏の天下の権を掌握すると共に一躍繁栄を極めるに至ったのです。殊に三代将軍によって参勤交代の制度が確立してから諸大名の邸宅がここに置かれるに及んでは、消費的な都市として発展が著しいのですが、なおそこに於いて中核をなすものは武士であり、武士の本質は日常生活に於いて質素、倹約を旨とし、剛健なる気分が保たれなくてはなりません。平和の継続と共に江戸に於いても事実上は套移生活の促進は免れない所ですが、武士の本質はあくまで、一旦緩急の時にところする反平和的精神にあると云わなくてはなりません。かかる矛盾は江戸にある刀工によく現れています。刀剣そのものは平和時の道具たるべきものではないにも拘らず、なお一般武士の鑑賞を呼ぶところは、武士の本質そのものが然ると云わなくてはなりません。かくして平和の浸透は刃文の技術的なるに至りつつも、なおそこに鋭利、強靭を旨とする刀剣本来の使命が看却されるべきではなかったのです。江戸に於ける刀工にはこの点に付いての関心が特に強く現れているというべきです。
 この事は又家康以来の伝統のよく保たれている思わすに充分です。彼の質実を旨とする気質は刀工に於いては越前康継の寵遇に於いてよく現れます。初代康継以後二代三代康継、大和守安定、大村加ト、上総介兼重、長曾禰虎徹等北国鍛冶が続々と江戸に移住していますが、江戸の街の雰囲気が彼等北国人特有の素朴な性格と一味通じるものがあったかれです。この点江戸新刀は北国鍛冶によって代表される如き観があります。二代康継、虎徹、法城寺、安定一派の作品は地鉄あくまで強くあるのみにて沸の光冴えず、洗練された味わいには乏しいのですが、何者をも切断せずば止まらない気魄に満ちているものといえます。刃文は互の目小乱れ又は湾乱平凡にて変化に乏しいが、地鉄の小杢目細美は賞揚されるものであり、又銘振りを見ても一様に型にはまって流暢なる趣は見られません。私はこれを以て彼等の一本気の真面目さを物語るものであろうと思います。技術的には恐らくさして勝れたとは云えないとは思われますが、自己の作刀に忠実な努力を集中したと認められるものです。かかる点こそ江戸の生んだ刀工に適わしい気質であり、それと共に彼等の卓れた個性であると思います。我々はこの事を長曾禰虎徹に於いて典型として見る事が出来ます。その作品の一つに「半百出武州江戸、盡鍛冶之工精爾」とあるのを見ますが、老年に及ぶも孜々としてたゆまずまことに虎徹その人の本領を見るかの如くです。事実彼の作はそれ以後のものが大部分であり何れも甲乙なき出来であるのはその努力家たる面目を示すものと云うべきです。

 この時代虎徹に対立するのはいうまでもなく津田助廣と井上眞改です。それ等の作品を虎徹に比較する時は恐らく対照的であるのに直ちに気付かれるでしょう。虎徹のそれはあくまで素朴剛快なるのに対して、助廣、眞改のそれは華麗、洗練の趣あるものです。虎徹が江戸の作者に適わしい如く助廣、眞改は真に大坂の生んだ刀工と云うべきです。それ等作刀に反映する所はやはり大坂それ自身の街の性格です。大坂は太閤秀吉の居城の地であり京都と並んで上方の中心です。豊家の滅亡後は政治の中心たる地位を喪失したのですが、経済都市として依然繁栄を極め、東の江戸と相対立したのです。ここは商人の活躍する所ですから自ら自由の空気が漲っており且江戸が武士の都として質実なるべきに対し、ここは前代の桃山文化の遺風が新たな町人の趣味と結ぶによって存続されたのです。この時代は大商人と雖大名に依存して富みをなすもので、平和の到来と共に彼等はいよいよ裕福の度を加えたのですが、鎖国時代なる故その富みを用いてさらに大なる利潤を獲得する如き組織を築いております。したがって町人の富は多く奢侈生活に集中されたのです。かくて町人の都大坂はその伝統と町人の活躍とによって江戸などより余程華やかな生活が展開されていたのは勿論といわなくてはなりません。
 この点に付いて見るならば秀吉によって作られた桃山期の文化は豊臣氏の滅亡によって一旦地を拂った如くですが、大坂の発展と共に存続し益々広大になったという事ができます。その様な町に生活した津田助廣、井上眞改がその華麗なる作風を以て東の虎徹と対立したのも極めて当然の結果です。そして眞改が初代和泉守国貞の子として堀川の門流を汲み、助廣の父がやはり河内守国助の門にて国廣と関係を有するのも興味深い事実です。堀川一門が相州伝を以て桃山期の文化の中にあった事を思えばその門下流たる国廣、国助が大坂鍛冶の草分けとなり、それより大坂新刀の隆盛時代が助廣、眞改によって来るのも一般文化の上に於ける大坂の地位と相応するものというべきで、この点助廣、眞改の二人は大坂の街に適わしい刀工でなくてはなりません。
 助廣、眞改の他に有名なものは大坂丹波守吉道、大和守吉道、中河内国助、板倉照包、陸奥守包保、伊勢守国輝等があり、その一流夫々大坂新刀と称して一括するのも理です。
 以上の如く寛文、延宝の数多の刀剣の裡に見られる顕著な傾向は大坂新刀と江戸物の対立ですが、これ以外に独特の雰囲気の中にあるのは京都と肥前です。京都には伝統の古都に適わしく伊賀守金道、丹波守吉道、越中守正俊、近江守久道の一家が連綿たる家系を誇り、肥前は初代忠吉以来西国の中心として寛文、延宝の頃は量的にも非常な盛況を見せております。ここは新刀に於ける一刀鍛冶王国の観がありますが、それは外国貿易の中心たる長崎の港を控えていたところである地理的好環境にもよる事が大であったと思われます。
 この期の刀剣は全国的に見れば既に平和の色彩濃厚となるものです。この意味からすれば新刀は既にその発端より平和の刀剣ですが、この時代に於いては作風の上にそれが明瞭に表現されている所に特色を見る事が出来ます。
 されば盛況は延宝より天和に至って漸次哀願の萌しを見せて来たのでして、元禄に至れば俄かに刀剣界外況に見舞われる事となるのです。
 そこに平和の浸透のより著しく、武士社会に於ける退廃が刀剣不要の世相さえ示すに至るに及んでいるのを知るのです。

○ト伝(坂東太郎)「延宝ー常陸」
 刀、脇差等丈夫なもの多く、刃文は互の目尖刃、湾乱れ、大乱など沸崩れを交える。
ト伝(坂東太郎)「延宝ー常陸」

○興里(長曾禰)「寛文ー武蔵」

 作品脇差が多く刀も相当にある。作刀反浅く刃文小互の目乱れ匂足太く入るのが特徴、地鉄は小杢目美しい中に元の方に弱い鉄を見せるものが普通。初期作は互の目乱れにて焼刃大規模。タガネ深い剣巻龍の彫物がある。大和守安定と共に業物を以て名高い。
興里(長曾禰)「寛文ー武蔵」

○勝国(伊予大掾)「寛文ー加賀」
 刀、脇差共にあり、地鉄は締りたる板目、刃文小互の目又は鮮明な三本杉。
勝国(伊予大掾)「寛文ー加賀」

○兼若(四郎右衛門)「延宝ー加賀」
 刀、脇差共に多い、地鉄小板目又は柾板目、刃文箱乱れ、又は匂出来の逆丁子にて加州新刀独特のもの。
兼若(四郎右衛門)「延宝ー加賀」

○吉政(信国)「寛文ー筑前」
 刀、脇差共にあり。刃文は備前伝丁子、及び小丁子細かく揃い逆心にあるもの或いは尋常な直刃等。
吉政(信国)「寛文ー筑前」

○美平(東山)「天和ー山城」
 刀、脇差等、地鉄板目サングリとして、刃文直に尖りたる刃が逆になる、直に逆互の目ともいうべき、帽子深いものが多い。
美平(東山)「天和ー山城」

○忠綱(一竿子)「元禄ー摂津」
 脇差多く刀も相当にある。作品揃いたる丁子足長く入る。元直の焼出し、帽子は深くなる。又濤乱刃も見られる、彫刻を以て現れ刀身に這龍、剣巻龍、梅龍など大振りの彫がある。
忠綱(一竿子)「元禄ー摂津」

○忠吉(陸奥守)「貞享ー肥前」
 又は先立ちて死す故作品少ない、刃文喰違刃を余り見ず中直刃尋常なるもの、又は丁子足入りの焼巾深いもの、帽子小丸は初代より深くなる。
忠吉(陸奥守)「貞享ー肥前」

○長道(三善)「寛文ー岩代」
 刀、脇差共に多い。全て反浅く、地鉄子杢目強い。刃文互の目乱焼巾深く匂沸締る。
長道(三善)「寛文ー岩代」

○国助(河内守二代)「萬治ー摂津」
 刀、脇差多い。刃文は拳形丁子とて独特の丁子刃。しかし元直の焼出し帽子小丸下りにて大阪新刀の特徴顕著。
国助(河内守二代)「萬治ー摂津」

○長幸(多々良)「天和ー摂津」
 刀、脇差、古作一文字風の丁子刃及互の目丁子がある。
長幸(多々良)「天和ー摂津」

○照包(板倉言之進)「延宝ー摂津」
 刀、脇差が多い。初期作は互の目丁子にて後濤乱刃、直刃、直互の目足入りなど何れも匂沸深いもの。地鉄は子杢目。
照包(板倉言之進)「延宝ー摂津」

○輝行(高田)「延宝ー豊後」
 刀、脇差など。地鉄小杢目強く、刃文互の目乱れ揃った刃が締る。帽子小丸正しい。又尋常なる直刃もある。この派の作風は大体以上の如きです。
輝行(高田)「延宝ー豊後」

○眞改(井上)「延宝ー摂津」
 脇差多く、刀も相当にある。地鉄小杢目又は板目、刃文沸深き互の目乱刃、晩年には薩摩刀の如き直乱荒沸付の刃文となる。帽子小丸下り。
眞改(井上)「延宝ー摂津」

○正弘(法城寺)「寛文ー武蔵」
 刀、脇差がある。作刀反浅いもの多く、地鉄小杢目刃文互の目足入り、帽子小丸下り寛文頃の江戸新刀を代表する作風です。
正弘(法城寺)「寛文ー武蔵」

○久道(近江守)「延宝ー山城」
 刀、脇差が多い。互の目揃い間開きたる刃砂流交じる、三品帽子にて金道一派の作風です。
久道(近江守)「延宝ー山城」

○助廣(津田)「延宝ー摂津」
 脇差多く刀も相当にある。作品沸深い互の目乱れ揃いたる刃文、中期濤乱刃、匂深き直刃などを見る。
 帽子は小丸深く、直焼出しがある、しかし助廣にあっては之を摸倣した新々刀の作品に比してこれの焼出しが短い点が注目される。地鉄は小杢目細美です。
助廣(津田)「延宝ー摂津」

○祐定(上野大掾)「寛文ー備前」
 刀、脇差が共に多い、七兵衛祐定により復興された備前伝丁子をつぎ、寛文より元禄へかけて作品を残す。地鉄小杢目締り強い。互の目丁子古刀祐定の如き刃文です。

祐定(上野大掾)「寛文ー備前」


(「日本刀要覧」より)

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