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新春エッセー 還暦を迎えて思うこと

新春エッセー 還暦を迎えて思うこと

 年が明けて、還暦を迎えるのだが、これにはどういう意味があるのだろうか?

 還暦祝いは奈良時代には、貴族階級の間だけで行われていたという。干支が一巡し「生まれたときと同じ暦に還る(六十年前の赤ちゃんに還る)」という意味で還暦と呼ぶお祝いになったとか。

 赤い羽織を着る習慣は、赤い色に魔よけの力があるとされ、赤ちゃんを病気や悪いものから守るために着せていた習わしが、還暦を迎えた人にも転用されて「これからも元気で長生きしてね」という願いが込められ、一般化したようである。ありがたいことである。

 同年の友を見ていて気付いたこと。変な人が多い。興奮しやすい仲間が多い。牛という動物は赤い色に興奮を覚え、突進する習性がある。普段はのんびりとした草食動物なんだけど、いったんその気になると始末が悪い。自分が思うことに妙に頑固であったり、赤いパンツが大好きな奴もいる。しかし、六十歳のオジサンである。

 ここからは若者たちに、オジサンの昔話を聞いてほしい。

 『男はつらいよ』は、昭和良き時代に正月映画として毎年新作が上映されていた。今日は映画の中の風景を懐かしみながら、フーテンの寅さん気分で話したい。

 子供のころ、学校の暖房はコークスか石炭が燃料のダルマストーブだった。給食も今とは違っていた。ガッチャンプレスで作られたアルミの食器に、箸でなく先端が三つに割れたスプーン。フォークの役目も果たす優れものだったが、マナーの面からは悪評だった。おかずには鯨の竜田揚げも出た。今では高級食材の鯨が、給食で振る舞われていたのである。

 牛乳は必ず出た。その数年前までは脱脂粉乳だったそうである。主食はコッペパンというチョイ歯ごたえがあるパンだった。時折、揚げパンになって砂糖がまぶされて出てきたりした。生徒はそんな給食が楽しみだった。

 電車はレトロ感が満載で、床は油で防腐処理された木製だった。切符を買うと、駅員がハサミで切り込みを入れていた時代である。道路だって細道に入れば、舗装されていない泥道があった。

 夕方になると、豆腐屋さんがラッパを吹いて自転車でやってくる。洗濯屋さんも自転車で来る。自転車が大活躍していたのだ。

 家は木製の外壁であった。モルタル工法が出てきたのは小学三年生のころだったと記憶する。隣の家との境界には壁があった。ブロック塀を想像するだろうが、木で作った塀であった。

 便所はトイレと言わず、溜めであった。若い人に教えたい。水洗トイレやウォシュレットなんか存在しなかったのだよ。週に一度必ずバキュームカーがやってくる。それが楽しみだった。路地にホースを這わして各家の便所を回るオヤジさんとは、友達だった。オジサンはブルンブルン揺れるホースの上を飛び跳ねて遊んでいたのだ。皆さんはどこの田舎の話だと思うだろうが、東京なのです。これがまさに歴史なのだ。ああ、オジサンには懐かしい…‥。

 今は我慢の時です。直面する難局を一つ一つ乗り越えましょう。年男の私は、大好きな業界と、敬愛する組合員の皆さまの今年一年が、実りある年になりますように願ってやみません。

《※本記事は、弊社代表・生野正が執筆し、組合機関紙「刀剣界 第57号」(2021年1月15日発行)に掲載された内容を再構成したものです。》

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