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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第七節 国廣、忠吉、康継時代(新刀)-二

日本刀の形態研究(十一)-二

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第七節 国廣、忠吉、康継時代(新刀)-二

 ○相州伝の流行
 天正の末期までは刃文は大体互の目丁子締りに淋しい傾向にあったのに、慶長を境として全国的に沸匂の深い砂流などを交えた作風に転換しているのに注目すべきです。勿論この傾向は一斉にといっても一線を別ける如く全国同時に行われたものではなく、あるものは早く、あるものは比較的遅く共の間時代的に多少の出入りはあります。
 この事の最早く見られるのはやはり新刀の巨匠堀川国廣です。彼は時代的には天正より慶長に跨る作者ですから、その初期昨日州古屋打は末相州の如き匂締る互の目丁です。然るに慶長八年頃より山城にて作るものは互の目乱れも匂沸深く砂流入る国廣独特の作風に移っています。
 水田一派に於いてもかの大乱荒沸付の作風は寛永頃大興五国重によって始められたもので、その父三郎兵衛国重は天正前後における刀工ですから末備前風の作品を残しているのです。また山城に於ける関兼道の四子伊賀守金道、丹波守吉道、和泉守金道、越中守正俊についてみても末関の梯は少しも見られません。中に吉道の如きは幅広切先延心の刀や平造脇差の造込み、刃文乱れに砂流を多く交え、帽子は地蔵にある等全て相州上位の作風を狙っている事が明瞭です、伊賀守金道、和泉守金道も初代は同様の作風です。越中守正俊は美濃伝に相州伝を取り入れたもの即ち志津三郎の風情を表わすものです。
 なお関鍛冶の末裔たる肥後守輝廣、加州兼若も末関作風に造らずして、志津三郎の作風を狙っている如くです。
 これら一例ですが慶長元和へかけて新刀鍛冶は殆どすべて沸深き作風に転換しているのをみるのです。
 その理由は水心子正秀のいうところによれば、慶長以来古法すたれて刀工自ら銑をおろして鋼となし造刀する事なく鉄山にて吹き出す鋼を用いるからであるとするのですが、それ以外に新刀作者が匂沸深きものを意識して造り出さんと努力しているのをみるべきです。
 この事は当時世上に漲る古相州物称賛の空気が当時の刀工にまで反映したものと見る事が出来ます。
 相州伝は単に相州鍛冶の作風を指していうのみではなく少し制限された意味をもっています。それは五郎正宗を中心に想定された概念であるというのが至当でしょう。即ち造り込みにおいて重ねやや薄く、身幅広く切先延心、地鉄板目、刃文乱金筋、砂流チケイといった様なものが交る作風をいうので、これ等は正宗によって発明されたとする考え方で、正宗十哲といわれる人々が師よりの伝授によって、相州伝の作風を持つとされるのが基礎となっているのです。この事は慶長頃から次第に行われるに至った観念で新刀鍛冶が各々正宗一門の一人に私淑してその作風表現に努力しているのはその一つの現われと見る事ができます。
 相州伝の愛好は平和時代の刀剣鑑賞の態度の深まるによって興ったものといってよく、秀吉が正宗一門を特に重んじたのも刀剣の実用時代の遠ざかる事により来たものと考えられます。
 秀吉の性格として先人に類なき好みを持つ事は刀剣において従来の名刀の淵叢たる備前物以外の作品に着目したものでしょう。殊に相州伝が備前の丁子の定型に対しそれと対照的な崩れた刃文を主としています。互の目乱れ大乱れ、直乱等すべて焼刃界の乱れた作風です。そのようなものは必ずしも相州鍛冶の発明にかかるものではありません。正宗の父という行光やその師の新籐五国光などは相州伝といわんよりは山城伝に近い作風です。正宗も真実の作品は恐らくそのようなものであったと思われます。しかし正宗等が俄かに崇拝の対象となるやその作品のみを以て満足はされず種々作風の假托がなされるに至ったのでありましょう。この際考えられるのは、従来名刀の出ずる備前、備中、山城を除いたものが来たらなくてはなりません。
 この際選ばれたものは吉野朝時代の作品であったと思われます。この時代には長大な太刀や長巻寸延びの先反短刀が出来始めて、地鉄も刃文も従来のものとは違って大規模な異風の作風を示しています。時として互の目丁子は崩れ心になるものもあります。その様なものが摺上げ無銘となるに及んで正宗一門の作品に転換しかかるものを中心として時代進むと共に正宗の作風なるものの観念は明確の度を加えて来たと考えられるのです。従って吉野朝時代の著名刀工は十哲として正宗と結びつき、時代的作風の共通点は正宗より伝法を受けたという事により説明されるに至ったのです。
 かく世上に相州物称賛の傾向が強く、無銘の相州物が増加すると共に、当代の鍛冶は相州伝なるものに傾倒して作刀に努めた事は当然です。中には意識的に古作相州物を摸倣する生まれながらの大摺上げ無銘を作った者もあります。その様なものを今日残る作品の中に発見する事が出来るのはこの事実をしめすものという事が出来ます。
 新刀期の到来はかくして相州伝の流行と共に始まるという事が出来ます。この意味において新刀の鼻祖たるべき地位を占める者は堀川国廣であるとしなくてはなりません。
 一般に埋忠明壽が堀川国廣の師であると考えられ新刀は明壽と共に始まるとされたのですが、これは種々の点で反対する人が多いのです。中には国廣の鍛刀技術を以て明壽の遠く及ばざるところであるから明壽師事説は当たらずとしている人もありますが、私はその事は敢えて問題ではなく新刀の到来は相州伝を以て鳴り、大隅掾正弘、越後守国儔、出羽大掾國路は特に聞こえ、後大坂鍛冶の草分けとなった和泉守國貞、河内守國助もその門より出ているのです。
 埋忠明壽はその称するところによれば三条宗近の末流にて名門の出身です。その作品は刀剣の製作の外に彫刻、鍔小道具製作の広範囲に及んでおり、刀剣は切先延びた相州伝風のものと山城伝風のものを造っていますから、伝統を守る傍時代の風潮にも影響されていると見るべきです。国廣も或は彫刻の技を学んだかも知れません。しかしこの事よりも明壽の地位は弟子に肥前忠吉を持つ事において意義探しとされるべきです。
 忠吉は師の山城伝を継承して直刃を多く造っていますが、それとても匂沸深く喰違い、沸崩れを交えた独特の作風であり、後には互の目乱れ匂沸深い刃文を焼いているのはやはり時代の空気を反映するものでしょう。
 相州伝の興隆は直接には古作相州物の尊重から来るものではすが、豊家を中心とする桃山期の華やかな空気を思い見るならばそれに相応するものという事が出来ましょう。
 この相州物愛好の風は徳川氏の覇業と共に依然継承されますが、そこには自ら違った趣が見られます。それは堀川一門の作風を以て家康の寵愛を蒙るべき北国鍛冶特有の素朴さを現しているもので、二代康継亦同様という事が出来ます。
 この点についていえば国廣一門の作風はその華やかさに於いて秀吉の性格と一脈通ずるものがあります。国廣等と家継等の作風の相違はいわば秀吉と家康の対立の如くであり、次の時代に於ける江戸物と大阪新刀の対照的なるに発展するものの如くです。これは次期の問題ですから章を改めて述べる事に致しましょう。


(「日本刀要覧」より)

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