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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第四節 兼光、長義時代(中古刀後期)-二

日本刀の形態研究(八)-五

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第四節 兼光、長義時代(中古刀後期)-二

 ○正宗と相州伝
 相州伝とは一体如何なものでしょうか。これは人々によって種々議論の分かれるところですが、先相州伝は五郎正宗との関係を除外しては考えられないのです。最も簡単な考え方は正宗によって発明され後世に伝えられた伝法が相州伝となるものです。それは作風においては重ね薄く、身巾広い、切先延び心、地鉄板目、刃文沸出来の乱刃系統、金筋砂流等を交えた類のものを称するのです。そしてかかる作風は相州鍛冶の起こるにおいて初めて齎されたもので、これが元冠の影響によって来るものだとするのが普通です。
 元冠の戦は従来行われた一文字系統の丁子をして長光、景光等の直丁子に転換したもので、相州鍛冶をして決起するにはやや時代遠いのです。即ち相模鍛冶の祖である新藤五國光は作品の裏年号によって見るに嘉元以降に及ぶ作者にて、その直刃は粟田口伝を汲んでこれが完璧なるを示すとさえ見られる者です。彼が短刀作者とされその作品に多く短刀のみ見られるのも嘉元以降漸く世上に武備の弛緩の来たった事を物語るものといいえるでしょう。この点弟子の行光も同様の環境にあるものです。ここにおいて一部識者の正宗こそ相州伝の創始者であるとする考え方が自ら問題とならなくてはなりません。しかし今日正宗の作品として伝えられたものが殆ど大部分信じられないもののみで是を以て相州伝の本質を考える事は出来ない事情にあります。故に明治の鑑定家今村長賀氏の如きは正宗抹殺論を唱えた位です。これについて簡単に述べてみると正宗には摺上無銘のもの及生茎にして無銘のもの多く在銘にして信じるべきものをもたない事がその第一です。
 人々はこれに対して正宗の作品は原寸一様に長かったので摺上げて無銘にしたのであり、その頃は後世と異なり実用本位であったから銘など余り重きをおかなかったと主調するのが常です。しかしその摺上げの時代を考えてみると多く慶長以降のもののようで、刀身と同様茎をも非常に重んじた時代に属しているのを見るのです。この頃は摺上げ際にも銘の保有に非常に留意して人々のよく知られる返り折返し銘、額銘としたものであります。たとえ銘がなくなっても古い錆色を保有するため原の茎の一部を折返している場合さえ私は多く見ているのです。正宗の如き高名の鍛冶の作品を悉く摺上げ無銘にする事は何としても納得できないので其の間事情の伏在する事を考えざるをえません。
 次に正宗の時代は父とされる行光及びその師新藤五國光との関係から嘉暦前後と見るのが至当です。この頃は同時代の刀工が全て無反短刀を造っており、相伝風と伝わる重ね薄、巾広の先反短刀は、全く造られていません。そして太刀は造られず殆ど短刀のみ見られる如き時世にありますから、作刀上の改革など起こりうるべき理由を考えます。
 その様に考えて正宗一流の作品を見るとその中には新刀初期に造られたと思われる無銘大摺上げの刀を多く発見するのです。この事はその時代において正宗がもてはやされたからに他ならないと思われます。事実正宗等が有名になるのは豊臣秀吉の治世以後で、相州伝の観念もこの時代以降において造られた作品なのです。
 重ね薄、巾広の先反短刀が建武頃を界として出現する如く太刀、長巻の大なるは吉野朝時代の戦乱の中に生れたものである事は作風の概観のところにて既に述べました。これ等に現れる刃文地鉄などは全て所謂相州伝と称すべき作風で、彼の正宗十哲なるものは後世のかこつけであるにしても、来國次、志津兼氏、包重、兼光、長義、國重、左文字など悉くこの時代に活躍した刀工である事によって相州伝の作家として正宗門下に一括せられる事も必ずしも不当ではありません。しかしそれ等作風の類似は時代の一般的傾向でして、正宗より伝法を受けたものではないのです。殊に正宗と結ぶ所に相州伝の発生を以て元冠の影響と見る如き誤りに陥らせる端緒を持つに至るのですが、これは誤りにも拘らずその起源は遠く豊臣時代にあるので、我々はその因由の来る所に付いて考えて見なくてはなりません。
 先我々は新刀初期における刀工の作風について見る時そこに相州伝の影響の強く現れているのを感じるのでして、この事は取りも直さず時代の空気が相伝称賛の傾向にある事を物語るものです。新刀の鼻祖ともいうべき堀川國広についてみるにその初期の作品である日州古屋打は互の目丁子締りて末相州の如く古刀末期一般の作風と相通じるもので、慶長八年頃より沸深く砂流入る新刀独特の相州伝風作風に変わっているのです。弟子である出羽大掾國路、大隅掾正弘等一門一流の風すべて相州伝です。更に関鍛冶の末裔たる丹波守吉道、和泉守金道等は最も典型的なる相伝で、砂流金筋を交え地中に飛焼散じたる乱刃、造込みは寸延び平造脇差の巾広くして重ね薄いもの、少しも関伝の梯は見られません。
 慶長より日本刀の材料たる鋼が鉄山において製せられ刀匠古法の如く銑をおろして用いる事がなくなった為新刀独特の沸深い作風の出現したとする事は水心子正秀の説くところですが勿論それも幾分関係はあるにしても尚全般を覆うものではありません。即ち殊更に沸深きを好んで作られた事を見なくてはなりません。ここに相州伝が時代の称賛を得ている事実の存在するを思うと共に新刀鍛冶をして鋭意これが復元に努力する推進力となっているのを考えるべきです。
 相州伝愛好の時代的流行は勿論豊臣秀吉に負う所のものです、彼の性格と時代文化の雰囲気を観るならば直ちにそのよって来る所以を察する事が出来ます。「英雄は時代の性格を一身に体現するものである」という言葉の通り秀吉こそ彼の桃山期文化そのままの表現と見られる性格の所有者です。彼の朝鮮征伐の如きもその雄大なる意志を表すものではありますが、当時彷彿たる海外渡航熱と国民進取の気象など冒険的精神に思い至るならば又時世の波に乗れるものという事も出来るでしょう。桃山調の豪華優麗は当時台頭していた市民的嗜好の表現であると共に秀吉自らの性格でもあります。絵書における金碧絢爛たる永徳、山楽の趣は刀剣界にあっては相州伝の砂流し金筋を交えた作風と相通じるものといわなくてはなりません。
 ここにおいて秀吉の刀剣における好みは戦国時代の英雄達とは甚だ異なるのです。それは卓抜を好む秀吉自らの性格に基くものではありますが、また、彼の時代が初めて平和期に入る事にも起因する事をも考えなくてはなりません。武田信玄、上杉謙信、毛利元就というような人達は常に天下の覇業を目指して活躍した人々ですが、行住坐臥常に戦を思って平和の中にあるをえなかったのです。この点信長にしても同様でして、秀吉こそ最初の平和を真に楽しんだ人物であるという事が出来ます。先人達にとっては刀剣は何時も戦場の要具であり従って鋭い切味こそその要望の的であったのです。信長はその権勢を以て光忠十五振を集めたといわれて居ります通り備前刀の愛好者でありますが最も華やかな丁子刃の作者光忠を賞美したところは後継者たる秀吉の趣味と幾分相通ずる点があります。
 隣国に強敵を控えて常に戦争を胸に抱いている戦国時代の武将たちと天下統一の業を遂げて天下に臨む秀吉とにあってそこに心境の余裕の相違がなければなりません。故に秀吉が刀剣の嗜好において先人と異なるのは極めて当然です。また平和の到来は刀剣を使うものとすると共に見るものとする一面を持ち始めたという事が出来ます。切れるのみでは充分でなく切味を表現する美しさがなくてはなりません。従って刀剣が鑑賞されるのも秀吉以後に考えられる事実なのです。ここに従来名刀の深業ともいうべき備前刀以外のものが考えられる様になったのでしょう。何故ならば備前刀は何れの時代をも不問悉く丁子系統の刃文にて鑑るという点からすれば変化に乏しいといわなくてはなりません。この変化という点で取り上げられたのが、吉野朝時代に生れた太刀、長巻、短刀の作品であったと思われます。
 相州伝の刃文は元来備前伝に対して考えられるもので、先に沸匂の事を述べたときに焼入れ作業において匂の出来る瞬間は極めて微妙なのに対し、沸の出来る条件は様々である事をいいました。故に匂出来のくずれなき丁子を焼く事は備前鍛冶の如く技術優れた者でなくては作り得ないところです。しかし沸崩れや飛焼きを交えた作品は技術的にそれだけ拙なものですが、研磨の技術が発達して刀剣を鑑賞的立場において見る時はその変化を賞美する事もまた自然であるといわなくてはなりません。かかる見地による時は吉野朝時代の作品こそはこれに叶うものです。大きい太刀や長巻の刃文は極めて、大模様になり、また鍛錬が幾分疎になるので、これは一面において沸のつく事にもなります。また淬刃の際大きなものは自然焼土の脱落等も多く、沸崩れ、飛焼は交り勝ちなものです。例えば長谷部一派の皆焼の如きも当時はそれを意識して造ったのではなく、高火による偶然の焼土脱落から生れたものでしょう。大和包永にもその様な傾向をみます、その直刃沸崩れて古備前の如き作風はやはりその素朴的な技術を立証するもので同様の理由に基づくものです。彼の児手柏といわれる作品の如きは、表裏焼刃の形状が違う所から名付けられたものですが、これも意識して作ったのでなく、焼土脱落による偶然の結果に違いないと思います。
 焼土の脱落なく明瞭な刃文を焼いたのが丁子刃で、備前鍛冶が代々丁子に終始しているのも、彼らが他国鍛冶と比べて優秀な技術の所持者であった事を示すものです。変化を好む心と平凡を嫌う秀吉の心は匂出来の丁子刃を除外して沸崩れの交る刃文が鑑賞されることになると共に一般人の嗜好も形成されるに至ったと思われます。従って名匠として珍重されるものも古来の備前鍛冶では面白くないと考えられたでしょう。粟田口吉光、正宗、郷義弘、貞宗の如きその様にして秀吉以来俄かに盛名を高めるに至ったものと思われます。正宗の存在非存在はここに説く事は差し控えますが、彼等は寡作家乃至は当時にあってさえ作品の見られない刀工であったと想像されるのです。元来刀工系図には幾千の刀工名が掲載されていますが、その中で作品の我々の眼に触れる事のない者が沢山あります。それは有名な刀工は全て協力者を多く有し、多くの作品を残していますが、この協力者の立場にあったものは自己の作品を為すに至らなかったもののあった事は考えられます。また比較的平和の世に出た刀工は名家の出であっても作品は少ないのです。この様な事実を考えるならば、系図に見える者が全て作品を後世に伝えるとは限らないのでして、作品のないのは必ずしも非存在の鍛冶ではない事を知らなくてはなりません。
 粟田口吉光の如きは今日相当の立派な作品が残っていますが、猶寡作家たるをまぬがれません。正宗もその時代は嘉暦頃とされるならば吉光と同じく無反短刀の造られた時代にて同時代の刀匠も多く作品を残していない時ですから、良い作品はあったにしても寡作家と考えられるのです。貞宗も郷義弘の如きも同様に考えてよいと思います。
 一方沸崩れの交じる変化のある作品が賞鑑せられ他方従来有名でなかった一部の刀匠が珍重されると共に相州伝のものが、実質的に完成したのでして、これと共に正宗や義弘の無銘作品が激増したのです。中に新刀作者の手にあるものが存在するのも当然ありますが、一度相州伝の概念が形成されるに至れば、類似の作風を以てこれに擬する事は極めて容易です。従ってこれ等は全て大摺上げ無銘ならざるをえないのです。
 正宗十哲といわれる人々は多く吉野朝時代を中心に活躍した人々ですから、時代的特徴としても類似の作風を有するのであり、すべて正宗との関連においてその共通の作風を説明する事になったのも一応はもっともです。この頃においては備前鍛冶さえ造込みにて所謂相州伝と称される傾向のものと同様ですから相伝備前などと唱えられて兼光の建武以後の作品、長義一流をその中に包含するのが、古くから行われた説ですが、私の考えによれば、先反短刀や太刀、長巻の特異の作風も、備前鍛冶の頭領兼光、長義等により率先して工夫されたと思われるのです。
 そもそも正宗の出時代が作刀上の改革の行われる如き時代ではなく、鍛刀界は幾分萎縮状態にあった事と考えなくてはなりません。されば相州伝というものは、後代において特殊の社会的雰囲気の中に生れたものであり、その核心をなすものは、全て吉野朝時代の戦乱の内に生れた作品であるとするのが私の考えです。
 故に今日正宗、郷義弘、貞宗の存在論の当否を論じる前にその様な理由によって生れた無銘摺上の作品に吟味の眼を向けなくてはならないのです。

○元重(長船)「建武ー備前」
 時代的に兼光などよりやや先輩格の様に思われる。貞宗三哲の如きは勿論根拠ないものです。
 刃文は直足入り逆心のもの多く景光に似る。また鋸刃直刃などもある。短刀は無反先反双方共に見られるのは彼が建武以後にまで及ぶ事を示すものといえる。また長巻作品も見る。
元重(長船)「建武ー備前」

○則長(尻懸)「文保ー大和」
 作刀縞高目、刃文直小乱、直足入り、直(足入りなし)等あるが焼巾広狭を伴い狭い所は足入り広い所は沸気味がある。帽子は多く焼詰め短刀は筍反(無反)です。
則長(尻懸)「文保ー大和」

○行安(波平)「応仁ー薩摩」
 作品太刀多く地板目柾交り刃文細直小乱交り、または足入りのない直刃、元の方焼落しを見る。
行安(波平)「応仁ー薩摩」

○兼光(長船)「建武ー備前」
 兼光は建武を初め頃として活躍する刀工です。故に初期の直足入逆心のものは父景光に近く、後には互の目丁子、鋸刃となる。二尺六七寸前後の太刀を作り、短刀は初め無反短刀、中期以後は先反短刀を造る、大長巻もある。刀身に剣巻龍の彫刻を施すものあり、樋は丸止、角止共にあり添樋をも見る。

兼光(長船)「建武ー備前」
○国次(来)「元弘ー山城」
 建武前後に亘るので無反先反両様の短刀が見られる。刀は稀で、刃文は互の目丁子、直小丁子直刃などがある。
国次(来)「元弘ー山城」

○兼氏(志津三郎)「康永ー美濃」
 短刀多く刀はまれ。大長巻を盛んに造ったと見えて今日刀に改造されて残る。刃文互の目尖り心にて匂締るものが普通。
兼氏(志津三郎)「康永ー美濃」

○左文字「正平ー筑前」
 先反短刀多く太刀稀。無反短刀も少しある。刃文は互の目丁子または乱刃飛焼交り。
左文字「正平ー筑前」

○倫光(長船)「貞治ー備前」
 太刀、先反短刀と共にあり大長巻、大刀も見る。刃文互の目丁子匂締りて兼光後期の作風に似る、剣巻龍の彫刻があるものがある。
倫光(長船)「貞治ー備前」

○長義(長船)「貞治ー備前」
 太刀、先反短刀、大長巻。刃文は逆心の乱、互の目丁子大規模なもの、直刃など。沸つき崩れ風あり備前としては異色ある刀工。また銘字の大きいのも同時代の他の長船作者に比べて著しく個性的です。
長義(長船)「貞治ー備前」

○家守(小反)「明徳ー備前」
 貞治より明徳へかけて備前には小反物と称する一派がある。この中で家守は秀光と共に最も聞こえた作者。互の目丁子締り淋しい風がこの派の代表的なものです。大長巻作品もある。
家守(小反)「明徳ー備前」

○次吉(青江)「貞治ー備中」
 備中鍛冶は次吉、次直の時代大いに繁栄し、備前の兼光、倫光に拮抗している、作刀地鉄杢目強く刃文は直に逆足入りまたは逆丁子華やかなものが多い。地鉄中に澄肌と称して心鉄の出るものを多く見る。吉野朝時代を中心とするので太刀長巻何れも豪壮なものを多く作り、先反短刀も見られる。
次吉(青江)「貞治ー備中」

○廣光「延文ー相州」
 殆ど先反短刀、刃文大乱れ皆焼などにて典型的な相州伝の作者。
廣光「延文ー相州」

○国重(長谷部)「貞和ー山城」
 先反短刀寸延びのもの多く、重ね薄いのが特徴、刃文は互の目乱及び互の目乱飛焼を含むもの、または皆焼きになるものを多く見る。
国重(長谷部)「貞和ー山城」

○国吉(延壽)「元徳ー肥後」
 作品多く、長巻もある、刃文匂締る。二重帽子がある。
国吉(延壽)「元徳ー肥後」


 
(「日本刀要覧」より)

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