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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第三節 長光、景光、國行、國俊時代(中古刀前期)-二

日本刀の形態研究(八)-二

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第三節 長光、景光、國行、國俊時代(中古刀前期)-二

 ○長光時代の作風
 造込み=大体においては先の一文字時代の継続と見てよいのですが、特に注目すべきは長巻の出現です。長巻は鉾などから転化したものと見るならば上代よりの武器に改造が加えられなお古い時代より存在したものと思われますが、現在作品を中心として考えるのに古備前や一文字時代のものと思しき物はこれを見ることが出来ません。
 この時代から始めて出現するのを見ればそれが元冠の役によって興るものではなかろうかと思われます。
 長巻といっても後世吉野朝時代における如くに刃長長からず、いわば小長巻ともいった風のものでして、長光、景光等によく見かけるのです。それらが太刀に比べて集団戦の武器として適切であり、特に騎馬武者に対して効果的である事からして、文永、弘安の役の経験によって実用化するに至ったのでしょう。さらに元軍の用いる武器が長巻類似の鉾であった事に徴し、これより示唆を得て直ちに我国にても採用されるようになったものと推察できるのです。
 長巻は長光等の小長巻から発し時代降ると共に刃長が長くなり、遂に吉野朝時代においては極端に大きなものが出現するに至りました。今日は悉く刀に改造されて残っていますが、その特異の形態より直ちに長巻改造である事が察知できます。
 長巻と共に注目すべきは短刀の出現です。小刀或いは刀子とかいう名称によって古い時代より短刀に類似したものであった事は確かですが、現在残っているものを中心とする時は、長光以前と思われるものを見ません。直刀の時代は別ですが、我々がいう古備前時代、一文字時代のものは全く存在しないのは少し不思議な感じがします。現在我々の観念にある短刀は主に景光や國俊等により多く造られるようになり、粟田口吉光、新藤五國光に至っては短刀作者の名さえ興えられるに至っています。この事の因由を考える前に先ず吉光、國吉の的確な時代を指摘しなければなりません、吉光は正元という如き古い時代ではなく父國吉に弘安裏銘の立派な作品のある事からして凡嘉元頃を中心とするものの如く思われます。吉光に有名な一期一振と称せられる太刀があり、生涯太刀一振りのみ鍛え、その余は専ら短刀を作ったのだろうなどという推測がなされてきたのですが、これは勿論誤りです。私は吉光の初期時代と思われる太刀を見ました。来國俊も長船景光も主として晩年作と思われるものに短刀が多い事実から見ても粟田口吉光もその初期に太刀を作り晩年に短刀を主としたものと考えられます。恐らく新藤五國光もそうであったのでしょう。この事は嘉元以降元冠の緊張が段々忘れられて武備の幾分弛緩した事を示すものではないかと思われます。長船景光や来國俊の如き従来の伝統的地位を保持する者以外は太刀は多く作られなかったものとしなくてはなりません。粟田口吉光や新藤五のみならず嘉元より文保頃に存在したと思われる刀工は全てに太刀は少なく短刀のみ見られるのです。大和保昌一派、尻懸則長、相州行光などが短刀作品を多く作ったと考えられるのも同様な理由に基ずくものといい得ます。故に新藤五國光や粟田口吉光が殊更に短刀作家なのではなく太刀少なく短刀が多いのは一般に時代の傾向であったのです。それが後世には僅かな太刀は残らずに短刀作家という見解が取られたのです。粟田口吉光の太刀は一期一振のみでない事は前述の通りですが、多く作られなかった事は確信を以ていえるところです。
 これら短刀の出で来る所以についてはよく分からないのですが、吉野朝時代などと異なり戦乱の中に生まれ出たものではなく、元冠の大事件も少し経った時代ですから、特殊の戦闘の使用に基因するものではなく世上幾分平和の気分が漂っていた事を考えそこに帰らざるをえないのです。
 刀身中に目立つ現象としては、従来の掻通しの樋に対して長船鍛冶の手により角止めのものが造られてきた事です。次にそれが丸止めに変わって行った様に思われます。今日伝わる丸止め樋は原型角止めが直されてなったものもあります。また樋は研磨の結果自ずから訂正される事となります。この事は原型のそのまま保存された茎の中へ這入り込んでいる掻き通し樋の部分を見れば良く分かります。茎に残った部分の無雑作なるに比べて刀身の部分の樋は極めて洗練されているのは。後世手が加えられた事を物語るものです。樋はもと両チリのものですが、砥減りの結果片チリとなって行くのです。
 樋に関して三池の打樋を賞用しますが、これも方法として原始的なやり方です。それは焼入れの前に身を赤めて仕込んだ樋で古刀末期の槍にこの手法を見受けます。短刀には樋は施されませんが、重量を減らすという必要がなかったからでしょう。その代わり、素剣、腰樋、腰二本樋がよく見かけられるのです。古い時代彫刻で名高いのは豊後行平の小締りした額内剣巻龍が多くあります。行平も彫刻のある点または短刀を作り始めている事などからして長光と同じ時代であったと私は考えています。なお古備前、粟田口、一文字などに素剣濁鈷剣腰樋等がありますが、何れも宗教的意義を持つもので後世の如く装飾ではありません。梵字は兼光以来多く見られるものですが、総じて長船長光の出現以後太刀より短刀に種々彫物の施されてあるのを見れば、元冠が未曾有の国難であった為、神佛の加護を乞うため写経、祈祷が盛んに行われ敬虔な信仰が世上に漲っていた事実と相応するものでしょう。刀身の彫物の意義に付いては内田疎天氏の大日本刀剣新考にすぐれた説明が見られますからそちらをご参照下さるようお勧め致します。
 倶利伽羅(剣巻龍)大振りなるは長船鍛冶の特徴ともいうべく長光に始まり以後景光、兼光、倫光、盛光、盛重と長船嫡系の者が代々相伝の技としているのは甚だ興味ある事柄として特に注目できます。

 刃文=この時代の刃文の特徴は長光より景光及び来國行より國俊の作品を検討する事によって全国的な傾向が大略看取せられるのです。備前における長光より景光への推移は山城においては國行より國俊に至ると時代的に同列にあるのです。この全国鍛冶の二大中心は時代作風の代表をなすものといえます。長光の初期はやはり光忠の影響を受けて丁子刃華やかに、彼の長光一代の傑作を以て目される大般若長光の一刀は、作風、銘振りより初期の作品と考えられるものですが、それが次第に直丁子に代り行くのは大丁子作品の非実用を知った為でしょう。即ち極端に焼刃の広狭のある丁子の如きは実戦に不適と知って直丁子が考えられたものと思われます。直丁子は焼頭を一定の点より昇らせないよう、即ち焼巾を一定するように丁子の土取りに更に直刃のそれを交えて作る入念な焼刃でして外見の淋しい事のみを持って技術の低下を物語るとされてはなりません。この工夫が先以て長船鍛冶の棟梁長光によって率先して行われた事は備前が古来よりの刀鍛冶王国たる貫禄を示すものといい得るでしょう。この意味よりいえば畠田守家は作品文永末年に及んでいますが、光忠風の丁子作品に終始している点一文字の最後を飾って元冠の影響を充分に蒙らなかった刀工の一人であるとも考えられます。
 山城にあっては来國行が直丁子を始めており来國俊がこれを継承している事から見れば、当時盛況を呈した事は来一派であると考えられます。粟田口においては國吉に作品を見るもその子吉光は太刀少なく門流余り栄えなかった点などからして来一流が指導的な地位にありたる事が察せられます。
 備前においては長光に次いで景光が栄えた様ですが、彼の作品はまた父より受け継いだ直丁子が次第に逆心の足入りになってこの傾向がその子の兼光によって伝えられたのです。その時代は建武に近くなっていますから初期及び中期以降と作風を異にするのは転換期に立つ刀工なる事を思わせるのですが、この事は子の兼光に至って顕著であり従って次の章兼光、長義時代において説明します。
 備前一国についていえば丁子が直丁子、直になり、直丁子から次第に逆心の丁子に移り行くのです。逆丁子は直丁子の単調なるにまた一段の工夫が凝らされたもので、それは鋭い切れ味を表現するものです。事実また切れ味に意を注ぐことからしてまた切コボレに対する考慮などからして逆丁子になるのです。景光の年末より兼光へかけて、この傾向が現れるのですが、同時代の元重及び備中片山一文字の逆丁子なども、結局時代的に同列にあるものでしょう。
 備前、備中の如き進歩的なる国々にあってはこの期の末早くも逆丁子という一つの変化が現れる事が注目されますが、全国的に大観すればこの期の刃文の特徴といえば直刃の完成という事に尽きると思います。備前にあっては丁子より直丁子、備中にあっても直足入り、大和にては数少ない短刀作品も大体直刃系統に落ち着いています。山城にあっては来一派の直丁子がありますが、やはり直二重刃や直足入りも中々多く、粟田口も同様です。國吉の直二重刃、吉光の直刃互の目足入りとありますが、結局直刃の典型的なるは山城鍛冶の系統を引いた相州の新藤五國光や行光でして、その時代は嘉元より文保頃に亘るものです。

 

(「日本刀要覧」より)

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