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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第二節 一文字時代(古刀後期)

日本刀の形態研究(七)-五

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第二節 一文字時代(古刀後期)

 一文字といえば我々は直ちにあの桜花爛漫たるにも似た華やかな丁子作品を思い起こします。この一文字伝丁子なるものは現代の諸種行届いた研究を以てしてもその制作方法は知悉されず、これが焼刃の製作は殆ど不可能を嘆ぜしむる程巧緻を極めたものとされています。なので現代鍛冶の技術的理想は専ら一文字風丁子の復元にあるといってもよい程憧れの的となっています。
 しかしこの一文字の丁子といえども一足飛びにかかる洗練された刃文として出現したものではなく、技術的には前代の継続であり、時代経過のうちに当代の社会的要求を含めて完成をみたものです。そしてこの丁子を生んだ一文字鍛冶は備前國福岡を中心に栄えた則宗、信房等の一流です。
 則宗の父は定則ですが、その作品は殆ど見受けません。しかし時代的には古備前時代に属するというべきですから、作風は例の小乱沸付のものであったと思われます。かくして則宗の作柄も一般系図の如く定則子をそのまま信じるならば恐らく初期は古備前風の作品であったでしょう。また一方古備前も末期に至れば自ら丁子風の作品へ進化しつつあった事は前に指摘したところですが、則宗もその所まで到達していたに違いありません。一般時代の傾向として必然的に丁子刃に向き合った事が考えられますが、一文字鍛冶をして独自の丁子刃を完成した動機は他にも求められるのです。それは後鳥羽上皇の鍛刀御奨励です。上皇の武家討滅によって天子御親政の御代を回復し給わんとする御理想は、その備へのためにかねてより武事に専念し給うと共に傍鍛錬の道をも好ませ給い刀工の招致となったものと拝せられます。殊に御手づから鎚握らせ給うと承る深き御嗜みは従来低き地位に甘んじていた刀鍛冶に破格の優遇を許し給うたのです。この事は何としても日本刀躍進の一大転機を興さずには置きません。草深き田舎の一職人たる刀工が非凡なる手腕の故に位階を賜り天顔を拝する光栄に浴する事になるのですから男子たるもの奮起せざるを得ないでしょう。ここに忽ち日本刀の隆盛時代が来たことは極めて当然というべきです。
 そしてこの際後鳥羽上皇の最信任厚き刀工といえば一文字鍛冶の祖である則宗であったと思われます。後鳥羽院御番鍛冶の事は信頼すべき史書にその記載無く事実の詳細を知るべき術もないのですが、俗書にあげられたところによれば
刑部の丞に任ぜられ、世に菊御作と呼ばれるものは則宗の作刀に御銘たる菊を切り給うたものであると言われています。かかる所伝をそのままに信じるものではありませんが、しかし則宗の作品と後世一文字鍛冶の発展によって残された作風とを具に考えみるならば、後鳥羽院の一文字鍛冶への御寵遇にはなお信ずべき根拠を持つといい得るかと思います。
 古備前末期萌芽を見たところの丁子刃は則宗の出現と共に焼巾の変化が加えられ、急激にそれに向かって発達を遂げたものでしょう。即ち当時備前において則宗は名工の聞こえが高かった者であり、それが光栄の御番鍛冶として都に奉仕する事となったので、恐縮と感激の念もって作刀に努めたであろうと想像できるのです。かかる心境はやがて卓越する手腕と相俟って彼の優れた作品となった事はよく知られたところです。同時に作風に於いて何等か他と異ならんと努めたであろう事も考えられ具体的にはそれが福岡一文字の丁子たる発展の方向として興ったものです。一文字鍛冶はこうして末流に至るまでもその父祖の栄誉に対しひそかに誇りを持って鍛刀に精進したに違いありません。その努力こそはやがて相積もりて一文字丁子を大成させた精神的基礎ともいうべきものなのです。
 その様にして一文字の台頭は後鳥羽院の御治世からと考えられるのですが、それ以後は備前、備中共に丁子刃の全盛となるのです。そしてこの傾向は元冠を中心に長船鍛冶の正統長光が出るまで続きます。ここにはその間を一文字時代と呼び全ての鍛冶の系統に亘って共通的な傾向を概観しようとするのです。


(「日本刀要覧」より)

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