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日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について 第一節 古備前時代(古刀前期)

日本刀の形態研究(七)-二

日本刀の形態研究 第四章 日本刀の発展について
第一節 古備前時代(古刀前期)

 上代風の無反り直刀は大宝令の制度の如く平安朝の公卿階級と運命を共にし、反張日本刀は常時新たに地方に勃興せる武士階級によって歴史の舞台に持ち出されたのです。その起源に付く的確な時代を示す事は甚だ困難な問題ですが、必然的な運命より考えるならば武士が漸く社会の関心となるに至った承平、天慶の乱を界として、初めて実用化されたとしなくてはなりません。この頃を起点として後鳥羽上皇の御番鍛冶時代までを古備前時代と呼び一括し時代の作風を窺う事にします。
 この期の最も代表的な刀工は伯耆安綱、備前助平、包平、正恒、友成の五人です。安綱は従来時代大同といわれているのですが、その作風を詳細に観察する時遥かに時代降る事が考えられ、同じく永延也と称される助平、包平、正恒、友成も大体安綱と同じ頃かと思われます。そしてこれ等刀工の時代も後鳥羽上皇の御治世を溯る事幾許も無いとさえ考えられます。
 古書によると山城三条鍛冶及び大和千手院一派は永延頃より始まる極めて古い年代を示していますが、これ等の作品は恐らく我々の眼に触れることのない物ですので、世上の実在作品を以ては安綱等五人が最古の刀匠といえるのです。そして彼らの作風は大体に於いて何れも従来古備前の刃文也といわれる小乱沸付で、同じ頃の刀工の作風はほぼ類似の傾向を有していますから、この日本刀萌芽の時代を呼ぶに古備前時代の名称を以てする事に致しました。
 
 ○無銘刀工の歴史
 刀剣が単に切れるという目的のみによるならば焼刃はなくてもある程度まで可能です。故に最も原初的な刀剣は焼刃は無く鉄そのものを打ち延ばしたままのものであったと思われます。焼きを入れる(刃鋼を造る)という操作がなければ形は自由に複雑に作り得るので、古い時代の鉾、剣が様々の珍奇な形相をしているのも一つには材料が銅もしくは青銅の為です。大体初期の刀剣は平造、片刃の刀が優位を占めたと考えてよいと思います。そして片方刃の刀剣は焼刃によって自ら来る造り込みでなくてはなりません。また鎬は本来極めて刃部近くにあり、即ち鎬地が刀の大部分をなしていたのが平造りより幾分進化した形式であったのでしょう。これが反りの発見と研磨の経験よりだんだん鎬筋が棟の部分へ近く押しやられて今日の日本刀に近いものになるという順序を経て進化したのであったと思われます。そもそも焼刃を造る目的は第一に刀の切断力を鋭利にするためですが、他方で刀の恒久性を保てし、折れ曲がりを防ぐ等の効果を有すのです。そして焼刃作業は必然的に刀剣の形を複雑にすることを不可能とするに至ると共に鉄の重量と相まって細身の日本刀の出現へと導くのです。また焼刃作業の前提として鍛錬が行われなくてはならず、鍛錬より焼刃作業へとその過程の中に偶然反りを発見し、これが切るという事に対して効果的というのを知ると、今度は意識的に反りのある刀を造るようになったのです。そしてこの刀を実戦の武器として携え歴史の舞台に登場したのが、新興武士階級であったという順序になるのです。
 焼刃の出現によって刀剣は刃文及び地鉄の二要素を得る事となりましたが、研磨が刃味の為にのみ行われていた時代には未だ厳密たる意味の刃文などという意識は無く、勿論地肌などの観念はありません。焼刃の発明されて間もない常時の刃文は如何であったかといえば、古備前風の小乱沸付きのやや整わないものであったろうと想像できます。勿論この時代にあっては小乱なる焼刃は刃文を意識して造ったのはなく、唯実用の目的を以て単純に刃鋼を為す操作の結果が、今日研磨によって小乱として出現したにすぎないものです。次第に技術の進歩と相まって焼き巾を広狭なく一様に作るという事になると思われます。直刃(長船景光や新藤五國光に見る、足入りのないもの)の如き見た目には変化に乏しい故ややもすると古い時代に造られたと考えがちですが、技術的には一線にムラなく焼刃を形成するのでなかなかの手腕を要するものです。だから眞の直刃の出現は遥かに後代の事に属するのです。
 小乱刃文の刃界に出現する千変万化の沸匂の働きを見ると、これを意識して造ったとすれば誠に恐るべき技巧の冴えとはいわなくてはなりませんが、実は偶然のなせる結果でありまして古人は決してこの様な変化を狙ったものではありません。それらは後世の研磨術によって発見されたに過ぎないものです。しかしこの小乱刃文として大体等しき傾向の刃文に落ち着くまでには長い年月を要した事が考えられ、今日作品の残らない刀工も自らは刃文の意識などはなかったにしてもひたすら鋭利鉄甲をも絶つべき名剣の製作のために父祖の伝法を基に必死の努力を続けたものでしょう。安綱、友成、正恒等はこれ等無名刀工の遺業を継いで優れたる作品を残したものですから、彼らの作力を以てそれ以前の傾向を大略既述の如く想像する事が出来ると思うのです。


(「日本刀要覧」より)

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