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浦賀打信秀より古い信秀の発見


 信秀は越後国、文化十二年(1815)の生まれで、通称栗原謙司と言います。師は、江戸後期の名工、源清麿であります。作風は身幅広く、重ね厚く、切先延びごころに先反りの気味があり、板目肌よく錬られて、地景が入ります。刃文は、大互の目乱砂流し、金筋交じる。刀身に這龍、不動明王、梅枝その他色々な彫物があり、鑚は浅く、密なる彫物がある。初期作は「彫同作」と必ず切り、晩年はないものがあります。

 今日まで信秀の最初期作は、嘉永六年紀(1853)の刀で長さ、二尺四寸余りを含め、何振りかあるようです。この年は、ペリーが浦賀に来航しており、国内防衛のために信秀が浦賀に赴いたものと思われます。源清麿筆頭の弟子が、栗原信秀であり、元来鏡師の技を生かして見事な彫物の名作を残しています。銘文は、「栗原謙司信秀」「栗原筑前守信秀」「栗原筑前守平朝臣信秀」「栗原平信秀」があり、信孝銘は、慶応前後の一時期、刻されたものと思われます。また、筑前守受領は、慶応元年で京都へ行き、この時期に「於大坂」の添銘があり、記念に打ったものであろうと推測されます。新発見は、栗原信秀銘で脇差、長さ 一尺五寸位、大互の目乱に沸強くつき、砂流しを交えた激しい出来で、未だ完成された作風ではないが、清麿門と解る作風でありました。これから察するに、信秀が清麿の弟子になったのは、晩年ではなかろうかと思われます。


(刀遊亭極楽とんぼ)

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