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泰龍斎宗寛の銘と伊賀乗重の截断銘について

弊社所蔵の「於江府古河臣泰龍斎宗寛」が公益財団法人日本美術刀剣保存協会発行の「刀剣美術 新年号 」に掲載されましたので、以下に掲載致します。

「泰龍斎宗寛の銘と伊賀乗重の截断銘について」
井本 悠紀

刀銘
(表)
於江府古河臣泰龍斎宗寛
嘉永三年十月日作之
東都於千住伊賀乗重
(裏)
斎藤半蔵貞辰佩刀我子孫
厭長勿短困貧勿鬻
両車裁断其刃二而頭割
各土壇拂時于六拾一才

長さ二尺六寸三分半 反り八分 鎬造 庵棟 大

地鉄 小板目肌つみ、地沸よくつき、地景入る。
刃文 互の目丁子に袋丁子風の刃・角ばる刃など交じり、
   ほぼ四寸程の間隔で同じ刃文を繰り返し、足入り、匂勝ちに沸つき、僅かに金筋入る。
帽子 乱れ込み、先小丸。

 江戸時代後期から末期にかけて、多少の写し物を除けば終始一貫して備前伝の丁子乱れに徹した人物に固山宗次がいる。そして、その技術と作風を見事に継承したのが門下の古河藩工泰龍斎宗寛である。
 泰龍斎宗寛は白河の産まれであり、姓は大野氏、近くを流れる阿武隈川の名を宗寛の代になり姓として用いるようになり、初期の作には阿武隈川宗寛と銘するものが多い。ちなみに、この阿武隈川、刀剣界に於いては「あぶくまがわ」と一般的に呼び習わされているが、『刀剣趣味』三十二号に掲載されている福永酔剣氏の「泰龍斎宗寛の研究」に依れば、地元福島では「おおくまがわ」と呼ぶのが本当とのことである。宗寛の曽孫に当たる当主(当時)寛氏の母堂が孫たちに「うちの名字はナ、オオ隈川とよむのが正しいのじゃ」と伝えていたという話には興味がそそられる。
 さて、宗寛の作に見られる独特の隷書体による銘字は、安政四年八月頃(一八五七)から使われるとされ、その頃になると銘文は泰龍斎宗寛と泰龍斎の号を用いるようになっている。この号を用いる時期については、通説では安政初年頃からとされている。
 しかし、宗寛の年紀作を確認すると嘉永五年(一八五二)に一点、そして今回紹介する嘉永三年紀(一八五○)に泰龍斎と号していることが認められるのである。ともすれば、独立後間もなくしてから泰龍斎の号を使用し始めた可能性が考えられる。
 但し、その後、慣習的に泰龍斎の号を使用してはおらず、やはり継続的に用いるのは安政初年以降とするのには異論はなく、弘化、嘉永頃の年紀を有する泰龍斎の号を用いた資料のさらなる出現を俟ちたい。
 また、本作で泰龍斎の号と共に注目したいのは、茎下部に記された伊賀乗重の截断銘である。
 伊賀乗重は寛政四年(一七九二)に生まれ、通称は新次郎、新三郎・兎毛・四郎左衛門、諱は初め勝乗、入道して瓢鯰と称し、安政四年十一月二日に六十六歳で没した。尾張藩付家老成瀬家の臣であり、様斬(ためしぎり)の技を山田浅右衛門に、鍛刀の技を固山宗次、泰龍斎宗寛、舞鶴友英に習ったとされる人物であり、幕末の目利き四天王に数えられている。特に山田浅右衛門、固山宗次、伊賀乗重の三者の関係が密であったことは現存する宗次の作刀、そこに紀された截断銘から窺い知ることが出来る。
 伊賀乗重の截断銘は、私見では天保六、七、八、九、十四年と宗次の作刀を主体として天保の中程から終わりにかけて集中しており、乗重が四十代後半から五十代前半にあたる頃に精力的に様斬を行っていた様子が窺える。しかし、その後は宗次に限らず他工の作刀にあっても乗重の截断銘が確認されなくなっている。その要因について詳らかでないが、年齢的なものに加え、息子乗辰の成長があってものと考えられる。
 伊賀藤四郎乗辰の截断銘は、乗重と入れ替わるかのように天保十五年紀(一八四四)を初見とする。それは父同様に宗次の作(参考資料)であり、「十二才乗辰一ノ胴截断」と截断銘が記されている。
 銘文に依れば、同日に同じ刀を使い山田家七代目吉利が様斬を行っており、乗辰もまた父同様に山田家から様斬の技を学び、十二歳にして切手としての見事な腕を見せたのであろう。
 さて、天保の終わりを境にして確認されなくなった乗重の截断銘であるが、再び確認される...。

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